
カフカの「変身」に続いて、何年も読まずに本棚に入っていた本を開いてみた。カミュの「異邦人」。
この2冊はブックオフでなんとなく、本当に内容も知らず、作者に対する知識もなく、有名っぽいから+100円だから、ということで買って、たぶん4年くらい経っている本だ。ちゃんと読むべき時が来ると読む、というのは面白い。
この本は1942年にフランス人のカミュによって書かれた本。
wikiでも説明されているので、詳しくはそちらを参照。
深い本なので感想を書くのも難しいのだけど、主人公ムルソーの無感動/冷静/淡白な視線は、現代に生きる僕を見透かしたようだった。
つまり、自分らしくありたい、生きる理由がほしい、何でも自分で選びたい、自分の好きな物に囲まれて暮らしたい、感動したい、といったある種贅沢な(そして空虚な)志向は何かの反動であって、それを剥ぎ取れば、つまるところムルソーと同じく「人が生き、死ぬことに理由などない」ということだ。
特に印象的だったのは、最後にキリスト教の司祭を罵る箇所。
〜(前略)〜
他人の死、母の愛ーーそんなものが何だろう。いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、ひとびとの選ぶ宿命ーーそんなものに何の意味があろう。ただ一つの宿命がこの私自身を選び、そして、君のように、私の兄弟といわれる、無数の特権あるひとびとを、私とともに、選ばなければならないのだから。君はわかっているのか、いったい君はわかっているのか?誰でもが特権を持っているのだ。特権者しか、いはしないのだ。他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた処刑されるだろう。
〜(後略)〜
「生きる」ことを冷徹に見つめ、「生活」というごまかしで薄めなかったことが、ムルソーが貫いたことだったと言えるだろうか。
つまり僕自身になぞらえて言えば、ある日の僕は、仕事をする、晩ご飯を食べる、ボッサと遊ぶ、音楽を聴く、ネットを見る、というそれぞれに没入して、それが途切れずに延々と続くような生き方をしている。それぞれが楽しみであり、これが続く限り僕は「生きる」ことを凝視することはない。
逆に言うと、生きることを細切れにして、それぞれの時間をいろいろな趣味や仕事に置き換えることで、ちゃんと生きているような気になっているのかもしれない。でもそれってどうなんだ。
あとがきには、「人間とは無意味な存在であり、すべてが無償である、という命題は、到達点ではなく出発点であることを知らなければならない」とあるが、このことは人生の中でいつかちゃんと理解する必要があるだろうと思う。いつになるかはわからんが。
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