
「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」などのテレビドラマの演出家として有名な久世光彦さん(1935-2006)が50歳を過ぎて文筆家となり、書いた小説の一つ。山本周五郎賞受賞、第111回直木賞候補だそうな。
雑誌で目にした久世さんの記事がとても印象的で、すぐにamazonでこの本を取り寄せたのだった。
つっても半年前の話だけどね。やっと読了。
あらすじはこんな感じ。
昭和9年冬、スランプに陥った乱歩は麻布の「張ホテル」に身を隠し、短編を書き始めた。
張ホテルの謎めいた住人たちとの奇妙な体験、それに呼応するように書き進む短編「梔子姫」を通じて、乱歩は自身の内面の深部に迫って行く。
乱歩はこの時期、話が続かなくなって連載を中断するという失態を本当にしていて、その空白の時期を想像したのがこの小説の発想らしい。
冒頭で、入浴中に陰毛に白髪があるのを見つけて、40歳の乱歩が涙をこぼすシーンに象徴されるように、乱歩の中年男としての寂しさや作家としての不安を、生き生きとでもコミカルに描いている。だからこそ、とても悲しい。
それから、劇中劇のように書かれる小説「梔子姫」。久世さんのオリジナルなのに、ほんとに乱歩が書いたかのように面白く、狂っている。
もともと僕は乱歩の作品をそれなりに読んでいて、中でも「孤島の鬼」は十代の頃の僕にはかなりショックなくらい、ホモセクシュアルやら倒錯した美意識やら・・といった内容だった。梔子姫からはそれと似た空気を強く感じて、全然違和感がなかった。
「梔子姫」を書き上げた後。
作家としての自信を取り戻し、この作品を引っさげて文壇に舞い戻るーーそれが願いだったはずなのに、乱歩に訪れた虚しさは何だったのだろう。
「梔子姫」の最後で<私>が「自分は生きているのか、死んでいるのか」と言っているように、幻想を生きた後に感じる自分の存在の不確かさだろうか。
その虚無の深さは計り知れない。
そして、描かれている乱歩は、きっと「梔子姫」を発表しなかったのだろう。
現実に「梔子姫」は乱歩の作品として存在しないのだから。
あと。作品中で、乱歩はたびたび誰かに覗かれているような気がして、不思議がっている。
結局、視線の主の正体は明らかにならない。
思ったんだけど、その視線は読者(今回は僕)のものではないか。
つまり、この本を読むということは乱歩の執筆風景を覗き見るのと同じで、だからこそ作品中の乱歩も見られていることを感じ取って、訝しがっているんじゃないか。
本当はどうかわかんないけど、そのくらいリアルな江戸川乱歩の3日間がこの本の中には詰まっている。


ちなみに、この部屋の写真は、7年ほど前の僕とかの(別れた奥さん)が同棲し始めた頃の部屋。写真を整理してたらCD-Rから出てきたので、整理の話題ついでに載せる。