book: 2008年6月アーカイブ

異邦人 / カミュ

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異邦人 / カミュ


カフカの「変身」
に続いて、何年も読まずに本棚に入っていた本を開いてみた。カミュの「異邦人」。
この2冊はブックオフでなんとなく、本当に内容も知らず、作者に対する知識もなく、有名っぽいから+100円だから、ということで買って、たぶん4年くらい経っている本だ。ちゃんと読むべき時が来ると読む、というのは面白い。

この本は1942年にフランス人のカミュによって書かれた本。
wikiでも説明されているので、詳しくはそちらを参照。

深い本なので感想を書くのも難しいのだけど、主人公ムルソーの無感動/冷静/淡白な視線は、現代に生きる僕を見透かしたようだった。
つまり、自分らしくありたい、生きる理由がほしい、何でも自分で選びたい、自分の好きな物に囲まれて暮らしたい、感動したい、といったある種贅沢な(そして空虚な)志向は何かの反動であって、それを剥ぎ取れば、つまるところムルソーと同じく「人が生き、死ぬことに理由などない」ということだ。

特に印象的だったのは、最後にキリスト教の司祭を罵る箇所。
〜(前略)〜
他人の死、母の愛ーーそんなものが何だろう。いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、ひとびとの選ぶ宿命ーーそんなものに何の意味があろう。ただ一つの宿命がこの私自身を選び、そして、君のように、私の兄弟といわれる、無数の特権あるひとびとを、私とともに、選ばなければならないのだから。君はわかっているのか、いったい君はわかっているのか?誰でもが特権を持っているのだ。特権者しか、いはしないのだ。他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた処刑されるだろう。
〜(後略)〜

「生きる」ことを冷徹に見つめ、「生活」というごまかしで薄めなかったことが、ムルソーが貫いたことだったと言えるだろうか。

つまり僕自身になぞらえて言えば、ある日の僕は、仕事をする、晩ご飯を食べる、ボッサと遊ぶ、音楽を聴く、ネットを見る、というそれぞれに没入して、それが途切れずに延々と続くような生き方をしている。それぞれが楽しみであり、これが続く限り僕は「生きる」ことを凝視することはない。
逆に言うと、生きることを細切れにして、それぞれの時間をいろいろな趣味や仕事に置き換えることで、ちゃんと生きているような気になっているのかもしれない。でもそれってどうなんだ。

あとがきには、「人間とは無意味な存在であり、すべてが無償である、という命題は、到達点ではなく出発点であることを知らなければならない」とあるが、このことは人生の中でいつかちゃんと理解する必要があるだろうと思う。いつになるかはわからんが。

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1980年に発行された、田中一光さんのエッセイ集。
1964年〜1980年にかけていろいろな雑誌に寄稿した文章をまとめ、書き下ろしを加えたものみたい。

田中一光さんの本はこれで4冊目なので、いい加減慣れて来た感もあるけど、文章は相変わらず素晴らしいので退屈せず読むことができた。

後で抜き書きしようと思って紙をはさんであるから、下手な感想よりそれを転載しておく。

翔ぶということは、つまり見方を変えることにある。ワクの中で、いくら懸命に走り出しても、足が地から離れることにはならない。真面目にレッスンを重ねる努力があったとしても、望むところの翔べる視界は容易に近づいてはくれない。むしろ、誠実に対しては非情な、無頓着な独創性が必要なのだ。完成されたものに従うのではなく、自分にとってどうかということにおいて、軽快に冴えていなければならない。(中略)
人間が正しいと決めたものの裏を正面にすえてみる。快適に対する不便、孝行に対する極道、信頼に対する冗談、そうした罪悪のすれすれのネガチブな地点から、翔ぶことのできる発想が生まれるように思う。だから翔ぶのは一人の方がいい。連帯は望めない。(中略)
志を抱いて翔ぼうと思ってはいけない。できるだけ肩をおとして楽な気分で、自分を偽らず、きわめて平易に、冗談に接近しなければならない。

・・長いな。この文章はまだ発想の転換を促すような言葉が続くんだけど、とりあえずおいといて。

いつの間にこんな息苦しいばかりの情報の渦に身を投じることになってしまったのだろう。それでいて少しも満たされてはいない。人間はいま感動を渇望し、孤立し、重大な身上相談ですら安易にディスクジョッキー氏にもちかけたりするのだ。
ぼくのような戦時戦後の世代であっても、飽食と同時に発生する現代の飢餓感が、どんな恐ろしい様相を呈するかそれは予想できるものではない。食べ物を残すのはもったいないことだ。一粒の米にも天の恵みと農民の労苦が秘められていると、ぼくたちは親からしつけられてきた。しかし今、空恐ろしいと思うのはそうした教訓とはかなり質の異なった飢餓感なのである。

この文章が書かれてから28年。インターネットや携帯電話の普及もあって、田中一光さんの指摘する「飢餓感」は、とんでもないところまできてしまっている。

そんな感じで、示唆に富んだいい本だった。

変身/ カフカ

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変身/カフカ

重松清さんの「ナイフ」の中で、「朝、目覚めたら虫になっていた話が〜〜」というような部分があって、それがこの「変身」。
本棚に入れたっきり読んでなかったので、思い出しついでに読んでみた。薄いのでわりとすぐ読めた。

1行目から斬新。
ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。
ものすごい簡潔、かつ異様な冒頭部分から物語が始まる。なんで虫になったかという説明は一切なく、家族も虫になったことをすんなり受け入れてしまう。

名作と言われるだけあって、いろいろな読み方ができる。
例えば虫というのは何かの象徴なのかもしれない。病気とか。
変身したのはグレーゴルではなく、家族という見方もある。(このへん読まないとわからないが)
最後の部分、グレーゴルが死ななかったら、どんな凄惨な展開になっていたかと思うと、それはそれで恐ろしい。
いや、でも結局自分の手は汚していないというのが、現代の人間らしくもある。

なんて、特にオチもなく考えさせてくれるというのが、名作文学っぽいな。

ナイフ / 重松清

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ナイフ / 重松清

実家に泊まったとき、ヒマだったのでブックオフで買ってきて読了。
いじめをテーマにした短編集で、5話くらい収められていたか。

子どもがいじめられたら、どうするだろう。
学校に怒鳴り込む?相手の家に怒鳴り込む?子どもを激励する?転校する?待つ?
いろんな親子がこの本では描かれているけど、正解なんてない。

でも読んでみて思ったのは、子どもには子どものカルチャーとルールがある。
大人の目線で、安易に「イヤなことはイヤって言えばいい」なんていうのは何の解決にもならない。
何ができるかっていうのはその時、一生懸命考えるしかないけど、なるべく早く気づいてあげること、子どもを尊重してあげることは大事なのかな、と思った。

「エビスくん」ていう話が、すごく泣けたなあ。
あとがきによると、重松さん自信の出会いと別れも、ストーリーに折り込まれているらしい。
他にも重松さんの作品をいっぱい買ったから、実家に行くのがちょっと楽しみになった。

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東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・キーワード編

菊地成孔さんの講義録、後編。
ジャズを「ブルース」「ダンス」「即興」「カウンター/ポスト・バークリー」の4つの切り口から分析し、それぞれの専門家を呼んで講義を聴く、という内容。
前編(正式には歴史編)を読んだのは・・なんと、もう1年半も前だ。

歴史編は相当面白く、2006年の読書ベスト3に入ったほどだったんだけど、このキーワード編は面白いというにはちょっと難しかったかな・・。
いや、難しいことより、具体的なアーティストとか楽曲が歴史編よりも出てこなかったから、抽象的すぎたのかもしれない。
ジャズの違った面を知ることができたのはよかった・・のかなあ。いまいち自信なし。笑

菊地さんシリーズは、次は「憂鬱と官能を教えた学校」を買ってあるんだけど、かなり分厚いので気が重い・・。いつ読むことになるのやら。

そうそう、日曜は菊地さんのコンサート。
こないだのモーションブルーがあまりにもよかったので、今回も楽しみ!

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